#Sarahの考察No,8 【結局のところファッションは悪なのか?】

映画「プラダを着た悪魔」に夢焦がれた人はきっと多いはず、ファッション好きでなくても、一度は見たことのある映画である人もいると思う。


映画のイメージで言えば、

「ファッション雑誌」「ファッション業界」「ブランド」「デザイナー」

ちょっとした業界の裏側が覗ける映画で、恥ずかしながら私もそんな世界に

夢焦がれたいた視聴者の一人。




DVDで見返す唯一の映画、メイキングや未公開シーンのセリフの暗記済み!


とまではいかないけど、隅々まで見た映画の1つなんだよねw



でも正直、この映画が好きかと言われると今は素直に「イエス」とは言えない自分がいるのです。


それにはいくつか理由があって。色々突っ込みどころや「?」と感じる部分が多くて。



とうわけで、お気に入りだった映画に違和感を覚えた感情の変化を今回は書いていこうと思う。(※独断と偏見に満ちた意見であるかと思いますが、あくまで一個人の意見なのでww)



このブログタイトル通り、プラダを着た悪魔ではファッションを「悪」と捉えている部分が含まれているのではないか?と感じたんだよね。


その1:ファッション=「見栄」が拭いきれていない


映画の印象的なシーンで言えば、主人公アンディーは「冴えない太った子」呼ばわりされ、本人も「おしゃれすること」に関してかなり無頓着。


というよりどうおしゃれを楽しめばいいのかわからず。ファッションで自分をどう表現していいかわからないというある意味コンプレックスを持っているタイプ。それ故、おしゃれする周りをかなり批判しがち。


ただアンディーの場合は、作家として志しているジャーナリストである=彼女は自分の能力を発揮する場所を持っているから、ファッションで自分を表現することがそこまで好きになれないという気持ちも分からなくもないけど、


彼女のファッションに対する偏見は、おしゃれをする事がそこまで得意ではない人が持つある種の意見かもしれない。


「着れれば服は同じでしょ」

「洒落た服を職場に着ていく必要があるのか」

「てかそもそもおしゃれって…なんぞや?」


とかやーのやーの思う子も世の中にきっと多いはずで、そういう子の方が人を見た目で決めがちだったりするのはなぜだろうか。←私の感覚的に


そして、人によってはおしゃれを頑張る人に対して否定的なる。


おしゃれすることがなんか悪いように映ったり、おしゃれにうつつ抜かすなみたい意識を常に解き放ち、人を否定することから始めてしまう。


そういう人は、心の中でその子たちに対して「憧れ」を持ってるケースって少なくなくて、思っていうことが正反対の言葉で埋められてくというような。


映画に話しを戻すと、


さっきも言ったようにアンディーもボスのミランダを見返すべく、おしゃれを武器に自信をつけ始めていく…


確かに素敵なんだよ。彼女の美しくなっていく過程はね。


申し分ないように感じるけどさ、彼女は「おしゃれ」をただの”見栄”としてでしか捉えられずいるということが最大の過ちかもしれない。見た目は変わったとしても、ファッションの概念を変えられずにいる。


劇中でも、最後にアンディーがパリコレから帰ってきて仕事を辞めたと告げる

彼氏と和解シーン。


アンディー「私なにやってたのかしら?」

彼氏「カバンや靴、服に夢中になってた」


って彼氏がいうわけです。


えーーーーーファッションのせいにするのか?笑


とこのシーン全く納得いかん。


仕事しまくって公私混同して

ランダムファッションガイと寝ることよりも、


ファッションが全て悪いというのですか?


アンディーきっと自分に自信はついたのだろうけど、成長させてくれたものを

邪険にしてしまうのか。といつしか思うようになってしまった私です。


その2 ボディイメージが古すぎる


映画は2006年公開(うわまだ小学生だった私w)


めまぐるしいトレンドの波を考えても、当時はまだモデル=スキニーである事は当たり前


の時代。今は、その頃と比べてもかなり健康的なボディが受け入れられるようになり、

ファッション大国のフランスでは、モデルが一定のBMIを満たない場合起用してはいけないということ、痩せすぎ注意を促す法律も制定された事も記憶に新しい。


メゾンブランド、モード誌でもプラスサイズモデルの活躍が目覚ましく、


今、細いだけが美しいとされていた世の中が変わりつつある。


映画ではというと、紙面を飾るモデルでもないファッション業界人の「痩せ」への執着がすごい。


見本サイズが(2、4号)が当たり前だからそれ位以外は=デブ


といったように。あまり参考にならないリアルではない世界だよなーってね。


炭水化物を食べようものならビルからつまみ出される勢いw


そんな事言ってるけど、


好きなところも多いです。この映画。


私的には、ミランダ=初代ガールボス的な方。


彼女に絶大なる信頼があるからみんなついて行くし、目指す人も多い。


それってとっても素敵なことだよね。


冷徹な女なんて言われるってシーンがあるが、アンディーも「彼女が男だったらみんなそんな風にみない」と発言している。(このシーンに関しても、まだアメリカ社会の見えない男女平等特に、ビジネスシーンでの弊害が描かれているわけで)


もいうことで、

その3 ライフバランスのステレオタイプ


私もそれは納得。

家庭を考えながらも仕事をバリバリやることでいいの?自分の人生それでいいの?ってところがこの映画のメインになるところでもある。

結論、幸せを見出すポイントは人それぞれであるということを教えてくれてる映画だと考えれば、アンディーが選ぶ道も、ミランダが歩む道も1つの正解。

(映画では、ミランダをやたら敵に回してるけれども…)

すごくあっさり片付けたけども、伝えたいのはそこではなくて、映画での時代背景はかなり偏っている。多様性をうたうよりもこうあるべきというメッセージがやたら強いように感じてしまった。

と言う感じで少し違和感を覚えしまってね。




ただ、好きの気持ちもないわけではあります。

特にこの映画は、思い入れも強いからさ複雑な感じなんだけども。以上の3つはこの映画から学んだことかな。

好きな映画を分析するとかなり色々考えさせられる。

こういうお話永遠とできてしまうので、今度インスタLiveでもしようかなww


とにかく伝えたいのは、

人間は見た目が8割かもしれないが、その人の一部であって全てではないということ。

ついつい、その人を見た目で評価してしまいがちだけど、ファッションでそこまで図ることは到底出来ない。

誰でもなりたい自分を演出できるツールである反面、ファッションは「見栄」や「まやかし」といったイメージはある意味ファッションの副作用であることも事実。

本来なら、壮大な歴史を持ってストーリーを含んでいる事柄で意味があるものだと思うんです。

そして、そのストーリーを無視してファッションを語ることは出来ないなと思う。

なんでこんな事考えるのかというと、わたしの世代的に、その人の人間的なキャラクターや趣向が本当にカテゴライズ出来ないほど、みんな個性に、溢れている。

でも、みんな人をどこかでこの人はこういう人って決めがちな気がするんだよね。

とくに、ファッションの印象って大きくて、

この子これ着るからこういう人だよね、こんな派手な服着るのにこんな趣味してるの?笑

とかさ、イメージが先行している感じ。

正直、そんなのくそくらえって思ってます。(口悪くてすみませんね。)

多分みんなもっとワガママでいいんだと思う。着たい思うものを着る。でもこのシンプルな事が社会的に辛みであったりもする。多分それは、トレンドというものが邪魔をするから。


露出高い服着てても、スーパーに行って、ぬか漬けだって買います。とびっきりおしゃれしてても、牛丼が食べたいと思ったら、おっちゃんに混じって食べます。

それだってスーパークールでしょ。

イメージって本当に決めつけるものじゃない。

なんか熱くなりましたが、そういうことです。ただ、ファッションに関してネガティブになりたくなくて、できる限り「なぜ好きなの?」を言葉にしたくて、この誰得かも謎なトピックを熱く語ってみました。

それもそれでいいかなw

私のファッションへの思いまた語る機会あったらしますね。

ご清聴ありがとうございます🙏🏽



































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